『フランケンシュタイン』というと、多くの人が「縫い合わされた怪物」「雷の力で蘇る死体」といったイメージを思い浮かべるかもしれません。しかしこの物語は、ただのホラーやゴシック小説ではありません。実は、私たち人類が“何かを創造する”という行為に潜む責任と向き合う深いテーマを秘めているのです。
もくじ
- ・小説『フランケンシュタイン』
- ・創造主が逃げたとき、何が起こるのか?
- ・「創ること」=「制御できること」ではない
- ・バイオテクノロジーがもたらす制御不能のリスク
- ・現代への“警鐘”
- ・読者へのメッセージ
- ・おまけ:フランケンシュタインの“本物”がいた場所?
・小説『フランケンシュタイン』
この小説は、若き科学者ヴィクター・フランケンシュタインが、人間の死体をつなぎ合わせて人工の生命を作り出すところから始まります。しかし、彼はその“創造物”に恐怖し、見捨ててしまいます。
一人ぼっちでこの世界に放り出された怪物は、人間から拒絶され続け、やがて悲しみと怒りに満ちていきます。
簡単に言えば、「人が生み出したものが、人を破滅に導く」という構図が、この物語の中心にあります。
個人的な感想としては、 誰から見ても恐ろしい怪物の姿で作り出され、孤独と戦い、誰からも教わる事なく必死の努力で言葉や文字、この世界の社会を勉強して、知識と知恵を付け、どうにか人間と仲良くしようと頑張って見るも、残念な結果に終わり、最終的に頼れる人は博士しか居なくなり、結局は裏切られてしまう怪物が可哀想に思えました。
それではここから、『フランケンシュタイン』という物語が現代に残す“寓意”について考察していきます。
・創造主が逃げたとき、何が起こるのか?
フランケンシュタイン博士は、自らの知識と情熱を注いで“生命の創造”という前人未到の領域に足を踏み入れました。けれども、彼はその結果に正面から向き合うことができませんでした。完成した瞬間、その姿に恐れを抱き、自らの「創造物」から逃げ出してしまったのです。
この時点で、博士は創造主としての責任を放棄しています。生まれたばかりの怪物は、世界に何の理解も持たず、誰にも受け入れられず、たった一人で存在するしかありませんでした。そして、孤独と拒絶のなかで、彼は次第に人間への憎しみを募らせていきます。
怪物は悪ではなく、最初から破壊を望んでいたわけではありません。彼は愛されること、理解されることを切実に願っていました。けれども、創造主である博士も、社会も、それを与えようとはしなかったのです。
ここには、「創ること」と「育てること」「責任を持つこと」がまったく別であるという、重い現実が描かれています。
人は時に、何かを創り出した瞬間に満足し、その後に生じる影響を他人事のように扱ってしまうことがあります。しかし、それこそが最大の過ちなのではないでしょうか。
フランケンシュタイン博士の逃避は、創造主の不在という問題を浮き彫りにします。
そして、それがどれほど深い悲劇を生むかを、この物語は克明に描いているのです。
・「創ること」=「制御できること」ではない
博士は、自らが創った存在に向き合うことなく、恐れから逃げ出しました。その行動が、怪物の孤独と怒り、そして悲劇的な運命を招くことになったのです。
この構図はまさに、人間とその創造物の関係のメタファーのように映ります。科学技術、人工知能、遺伝子工学――私たちはこれまでに、次々と“新しい存在”を生み出してきました。けれど、その結果に対して、私たちは本当に十分な責任を果たしてきたと言えるでしょうか?
私たちはしばしば、「創れる」ことと「制御できる」ことを同一視しがちです。しかし、何かを創り出すという行為は、それが意図した通りに動き続けることを保証するものではありません。特に、人工知能やバイオテクノロジーのような“自己進化”や“自律性”を持つ分野では、創造物が私たちの手を離れて独自の振る舞いを始める可能性があります。
つまり、創造とは始まりにすぎず、そこからどう関わり続けるかこそが本当の責任なのです。
『フランケンシュタイン』は、創る者がその後の責任を果たさなかったとき、創造物は“怪物”と化してしまうかもしれないという、非常に現代的な問題提起をしています。
この“創造と責任”の構図は、今まさに私たちが直面している現代のテクノロジーにもそのまま当てはまります。とりわけ、人工知能やバイオテクノロジーといった分野は、フランケンシュタインの怪物のように、創造主の手を離れて予期せぬ方向へと進化しうる力を秘めています。
人工知能の脅威については、これまでの記事でも様々な観点から紹介してきました。
・botが支配するSNSの未来 〜あなたのフォロワーは本当に人間?〜 - Mystery Record Blog
・技術の急速な進化とその光と影 〜スマートグラスとAIの融合が引き起こす未来〜 - Mystery Record Blog
・アルゴリズム神話:見えざる神の時代 - Mystery Record Blog
(人工知能に関する過去記事)
今回はもう一つの重要な分野、バイオテクノロジーが孕む制御不能のリスクについて、改めて触れてみたいと思います。
・バイオテクノロジーがもたらす制御不能のリスク
生態系への影響
たとえば、遺伝子組み換え作物やゲノム編集された生物が自然界に放出された場合、その影響は予測不可能な広がりを見せる可能性があります。人間が意図して施した遺伝的な改変が、野生の種と交配することで、新たな遺伝子が自然界に組み込まれてしまうのです。
これによって、在来種の遺伝的多様性が失われたり、本来その地域に存在しなかった性質を持つ生物が急速に広がることもあります。たとえば、病害虫への耐性を持った作物が野生の近縁種と交配すれば、雑草が除草剤に耐性を持ち、農業に深刻な影響を与える“スーパー雑草”が生まれるといったリスクも指摘されています。
また、人工的に改変された種が食物連鎖の中でどのような役割を果たすのか、どのように影響を及ぼすのかについては、まだ解明されていない点も多くあります。小さな生態的な乱れが、大規模なバランスの崩壊へとつながる可能性は十分にあり、いったん拡散してしまった遺伝子を自然界から“回収”することは、現時点ではほぼ不可能です。
つまり、科学的に“できる”からといって、それが“してもよい”ことかどうかは別の問題であり、特に自然との関係性においては、取り返しのつかない事態を招く可能性があることを忘れてはならないのです。
倫理的問題
バイオテクノロジーの進化、とくにゲノム編集技術の発展は、医療や難病治療の分野で大きな希望をもたらしています。しかしその一方で、この技術が人間の遺伝子にまで適用されるようになると、深刻な倫理的問題が浮かび上がってきます。
たとえば、将来的に親が子どもの遺伝子を選び、あらかじめ「知能が高い」「運動能力に優れる」「特定の病気にかかりにくい」といった特徴を持たせることが可能になったとしたら――それは技術的には“進歩”であると同時に、優生思想の再燃とも言える危険な領域に踏み込むことになります。
そもそも優生思想とは、「より優れた人間を人工的に選別・育成しよう」という考え方であり、過去にはナチス・ドイツによる人種差別政策や強制断種といった歴史的悲劇を招いてきました。バイオテクノロジーの悪用によって再びそのような思想が現代に蘇る可能性は、決して絵空事ではありません。
また、こうした技術は高額であるがゆえに、経済的に恵まれた層しか利用できないとすれば、社会的格差が遺伝子レベルで固定化されるという恐れもあります。すなわち、「遺伝子で強化されたエリート」と「自然のままの大多数」という新たな分断が生まれかねないのです。
このように、生命そのものを設計可能にする技術は、単に個人や家族の選択にとどまらず、社会全体の倫理観や価値観、そして公平性に深い影響を及ぼすことになります。人類の未来を左右しかねないその力を、私たちはどのように扱うべきなのか。フランケンシュタイン博士の過ちを、私たちは繰り返してはいけないのです。
バイオテクノロジーが進歩することで、私たちはウイルスや細菌といった微生物の構造を解析・再現し、さらには人工的に設計・合成することまで可能になってきました。合成生物学や遺伝子編集技術の発展は、本来であれば医療や環境対策といった分野において大きな恩恵をもたらすものです。
しかしその一方で、これらの技術が悪意を持った者の手に渡った場合、深刻なバイオセキュリティ上のリスクを生み出すことにもつながります。つまり、病原体の合成や改変が容易になることで、バイオテロの脅威が現実的なものとなっているのです。
たとえば、かつて天然痘のように根絶された感染症を復活させたり、致死率の高いウイルスを人工的に強化したりすることが、もはや理論上ではなく技術的に可能になりつつあります。また、既存のウイルスに対して薬剤耐性を持たせることで、従来の治療法が効かない“新型の病原体”を作り出すことも技術的には実行可能です。
このような知識や技術が、国家の軍事機関やテロ組織、あるいは個人レベルのクラウドラボ環境などで利用されれば、わずかな手段で大規模な被害を引き起こす事態が起こりうるのです。
さらに恐ろしいのは、これらの操作がデジタル化された設計図と試薬さえあれば、誰でも再現可能になってきているという事実です。まさに“誰でも手に入るフランケンシュタインの実験室”が世界中に広がっているとも言えるでしょう。
そのため、バイオテクノロジーの進展に伴う科学的な自由と、社会全体の安全とのバランスをどう取るかが、今後ますます重要な課題となっていきます。技術の力が暴走したときに何が起こるのか――それは『フランケンシュタイン』が警告した未来像と、決して無関係ではありません。
・現代への“警鐘”
『フランケンシュタイン』は200年前に書かれた小説でありながら、その根底にあるメッセージは、まるで現代社会に向けた“警鐘”のように響きます。
私たちは進歩を求めて、AI、遺伝子編集、ロボティクスなど、かつては空想の中にあったものを次々と現実のものにしてきました。しかし、その過程で私たちはしばしば、「それを創ってよいのか」「その後に何が起こるのか」といった倫理的な問いを後回しにしてきたのではないでしょうか。
フランケンシュタイン博士がそうであったように、創造の瞬間にばかり目を向け、その後に生まれる責任や関係性を軽視すれば、結果として生まれた存在は孤独や苦悩の中で暴走し、やがて創造主自身をも苦しめる存在になり得る――この物語は、そのような未来をあらかじめ予言していたかのようです。
科学や技術は本来、世界をより良くするための手段であるべきです。しかし、もしそこに「人間性」や「責任」が伴わなければ、それはただの“力”として、使う者の手によって善にも悪にも変わりうる。
『フランケンシュタイン』は、創ることそのものではなく、「創ったあとにどう向き合うか」を問う作品です。
そして今、その問いは私たち一人ひとりに向けられています。
・読者へのメッセージ
今回の記事を通して、もし少しでも『フランケンシュタイン』という作品に興味を持っていただけたなら、とても嬉しく思います。200年前に書かれたとは思えないほど、現代にも通じるメッセージが詰まった作品です。読めばきっと、科学や社会、そして人間そのものについて、何かを考えさせられるはずです。
そして――
怪物は本当に“怪物”だったのか?
博士の罪とは何だったのか?
そんな問いへの自分なりの答えを、ぜひ物語の中で探してみてください。
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・おまけ:フランケンシュタインの“本物”がいた場所?
小説『フランケンシュタイン』がフィクションであることは確かですが、実はこの物語にまつわる奇妙な都市伝説が、ドイツに存在しています。
ドイツのヘッセン州、ダルムシュタット近郊には「フランケンシュタイン城(Burg Frankenstein)」という古城が実在しており、観光地としても知られています。そしてこの城には、かつてそこに住んでいたという錬金術師・コンラッド・ディッペルの存在が語り継がれているのです。
コンラッド・ディッペルは17~18世紀に実在した神学者・医師・錬金術師であり、魂の移植や死体の蘇生に関心を持っていたという記録も残っています。彼は“ディッペルの油”という奇妙な薬剤を開発し、人体実験に類する研究をしていたとも言われています。
このディッペルこそが、メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書く際に着想を得たモデルではないかという説があり、地元では「ここが本当のフランケンシュタイン博士の館だった」とする都市伝説が今も語られているのです。
もちろん、これが事実かどうかはわかりません。けれど、実際に存在する城と、そこに住んでいた奇妙な学者――この一致が、物語の不気味さと神秘性に、現実の影を落としているように感じられます。