人類は常に「真実を知りたい」と願ってきた。しかし、奇妙なことに、オカルトの世界では真実を追求すればするほど、人々の関心は薄れ、むしろ誤った解釈や歪められた物語ばかりが広まっていく。これはなぜか? その答えの鍵となるのが「ナラティブ・バイアス」だ。
オカルトとは本来何だったのか?
「オカルト(Occult)」とは、本来「隠されたもの」「秘匿された知識」を意味していた。古代の錬金術、神秘学、密教的な思想――それらは、単なる怪奇現象の話ではなく、世界の本質を探るための手段だった。しかし、現代において「オカルト」と言えばどうだろう? 幽霊、UFO、超常現象、陰謀論……まるで「エンターテイメント化」された情報ばかりが前面に押し出されている。
この変化の背景には、人類が本来持っている 「ナラティブ・バイアス」 が深く関わっている。
ナラティブ・バイアス──人類が「物語の中で生きる」生き物になった理由
ナラティブ・バイアスとは、人間が物事を「物語」として理解しようとする性質のことだ。人類は太古の昔から、狩猟や戦争の経験、自然の脅威、社会のルールなど、あらゆる情報を「ストーリー」として伝えてきた。
このバイアスは、時代が進むにつれ、オカルトの世界にも大きな影響を与えた。もともと「隠された知識」だったオカルトは、次第に「分かりやすく、感情に訴えるエンタメ的な物語」へと変化してしまった。
例えば、
・錬金術は物理・化学の知識と精神の探求だったが、「金を作る魔法」として単純化された。
・秘密結社は権力と知識のネットワークだったが、「世界を支配する悪の組織」という陰謀論になった。
・心霊現象は人間の意識や未知の現象を探る領域だったが、「幽霊が現れる怖い話」として消費されるようになった。
こうして、ナラティブ・バイアスの影響で 「本来のオカルト(隠されたもの)」は、誤った物語によってさらに隠されてしまった」のだ。
さらに踏み込むと、この「ナラティブ・バイアスによって構築された世界観」は、まるで「シミュレーション世界」のようでもある。
人類以外の生物は現実を生きている、しかし、人間は物語の中で生きている
森の中で鹿が草を食んでいる。風が揺らす木々の音に混じって、かすかな枝の裂ける音が響く。その瞬間、鹿の耳はピクリと動き、筋肉がこわばる。茂みの奥に光る二つの目──捕食者の存在を察知すると、鹿は迷うことなく駆け出した。ただ生きるために、本能が命じるままに。
一方、猿の群れでは、熟れた果実をめぐる争いが起きていた。一匹の猿が木の上から手を伸ばし、真っ赤に実った果実をもぎ取る。しかし、次の瞬間、別の猿がそれを奪おうと飛びかかる。小競り合いが続き、最終的に力の強い猿が果実を手にする。それは単純なルールだ。見えるもの、触れられるものが、彼らの世界のすべてなのだから。
彼らは「現実」を生きている。捕食者から逃げる。食べ物を奪う。ただ目の前の環境に適応し、本能のままに生き抜く。それ以上の意味はない。
しかし、人間は違った。
人は森を歩きながら、「ここには狼の霊が住んでいる」と語る。果実を手にしながら、「この実には神の力が宿る」と信じる。命を守るための行動さえも、単なる本能ではなく、語られた物語によって形作られる。
お金を見てみよう。それはただの紙切れにすぎない。しかし、人はそれに「価値」という物語を与え、紙一枚で家や食料を手に入れることができると信じる。国境も同じだ。地図の上に引かれた線は、ただのインクの跡でしかない。しかし、人々はそれを「ここからが我々の国だ」と信じ、そのために争い、命を捧げることさえある。
人類は、現実そのものではなく、物語を生きる生き物となった。
鹿が捕食者を前にすれば、迷うことなく逃げる。しかし、人間は考える。「この狼は神の使いかもしれない」「この土地は祖先が守った場所だ」「この紙には価値がある」──人類の世界は、こうした「物語」によって形作られ、動かされているのだ。
もし、この「物語」がなければ、人間社会は成り立たない。しかし、逆に言えば、人類は「現実そのものではなく、物語というフィルターを通して世界を認識している」ということになる。
これを「シミュレーション仮説」に結びつけるならば、我々の生きる世界は「現実」ではなく、「人類が作り上げたナラティブ(物語)というプログラムの中」で動いているのかもしれない。
本来のオカルトを取り戻すためには
今、我々が目にするオカルトの多くは、ナラティブ・バイアスによって「分かりやすくされた偽物」にすぎない。しかし、本当のオカルトとは、もともと「隠された知識」だったはずだ。
もし人類が本当に「物語の中で生きる生物」ならば、それを逆手に取ることで、隠された真実に近づくこともできるのではないか? つまり、ただエンタメとしてオカルトを消費するのではなく、「なぜこの物語が生まれたのか?」「その奥にある本当の意味は何か?」を考えることで、ナラティブの向こう側にある真実を見抜くことができるかもしれない。
そして、その先にあるものこそが、本当の「隠されたもの(オカルト)」なのではないだろうか?